自由論
誤った意見にも聞く機会が必要なのはなぜか――ミルの可謬性と公開検証
「誤りだと確信する」を「自分は誤りえない」に置き換えてはならない。ミルの可謬性論は検証経路を守るが、すべての主張の同等拡散を求めない。
討論を沈黙させることは、すべて無謬性を仮定することである。『自由論』第二章・討論を沈黙させることは無謬性の仮定
直接の答え:「誤りだと確信する」ことは、誤りえない地位を意味しない
ミルの第一の理由は単純である。抑圧される意見が真実かもしれない。抑圧する側は当然それを否定するが、個人、制度、多数者も判断を誤る。理由を他者が見る前に討論を閉じれば、結論を示すだけでなく、他者が自ら判断する手段まで奪う。
第二章の原文を参照できる。可謬性は真偽がないという意味ではない。現在の確信が誰かを最終権威にしないという意味である。
聞くことは、信じることや同じだけ拡散することではない
検証経路を残しても、綿密な研究と無根拠な噂を同じ目立ち方で並べる必要はない。証拠を求め、誤りを指摘し、嫌がらせを制限し、質に応じて有限の注意を配分できる。
違いは、理由で反論することと、理由を共同検証できなくすることにある。公開基準で退けるのはよいが、権力者の「二度と問うな」で終えてはならない。
公正な検証の最小手順
相手が認める形で主張を書く。必要な証拠と反証条件を尋ねる。一次資料と最強の反例を探す。双方へ同じ基準を使う。最後に採用、棄却、保留の理由を公開する。最も弱い版だけを倒しても、意見でなく藁人形を検証しただけである。
討論には終了条件も置ける。証拠を反復確認し、新しい理由がなく、決定期限が来たなら行動できる。将来の再検討経路は、毎回ゼロから始めることではない。
多数の一致だけでは足りない理由
多数者はより良い証拠を持つかもしれないが、同じ情報源、利益、盲点を共有しているかもしれない。専門機関の信頼性には重みがあるが、質問から免除されない。信頼性は初期の重みを変え、検証可能性を消さない。
少数であることは正しさを証明しない。少数者が理由を述べることを禁じても、多数者の正しさは証明されない。
境界:意見から具体的危害へ
討論の擁護は、脅迫、嫌がらせ、詐欺、差し迫った有害行為の一部となる表現の擁護ではない。内容、聴衆、場所、時機、予見可能な危険を分けて評価し、「誤り」を危害の証明にしてはならない。文脈の変化は言論が行為の一部になるときで詳しく扱う。