伝習録
「無善無悪」は道徳をなくすのか――四句教論争における頓悟、修養、危険
四句教は、切り取って気軽に使える神秘的な一句ではない。天泉橋で交わされた二つの修養経路をめぐる議論である。陽明の裁定は本体の視点を残すと同時に、普通の人には善をなし悪を去る実践が必要だと譲らなかった。
善も悪もないのが心の本体であり、善と悪があるのは意の動きである。善悪を知るのが良知であり、善をなし悪を去るのが格物である。『伝習録』下巻 · 第115則
四句を天泉橋へ戻す
銭徳洪は意念の一つ一つで善をなし悪を去ることを重んじた。王畿は、本体に善悪がないなら、修養も無善無悪から悟り入るべきだと考えた。陽明は一方の勝利を単純に宣言せず、二つの入り口は互いを助けると述べた。鋭い資質の人は根源から直接悟ることができるが、習気に覆われた普通の人は、一つ一つの念において着実に修養しなければならない。この場面が示すのは、四句が倫理をなくす結論ではなく、本体と修養の両方を記した地図だということである。
「無善無悪」は何を述べているのか
現実の行為に良し悪しがないという意味でも、害することといたわることが個人の見方にすぎないという意味でもない。特定の意念に動かされる前の心は、「善い物」や「悪い物」と分類できる対象ではない、という本体の記述である。意念が関係と行為へ向かうときに善悪が現れ、良知はそれを見分ける。本体についての記述をそのまま行動規則に移すのは、「空には方向がないから、地上でも道を見分ける必要はない」と言うようなものだ。層の混同は現実の害を生む。
なぜこの言葉は権力者に悪用されやすいのか
力を持つ人ほど、自分の視点を善悪を超えたものとして語り、他者の異議を執着と呼びやすい。ある理論が、行為者に事実の説明、被害を受けた人の声を聴くこと、結果を引き受けることを免除するなら、どれほど高尚な言葉を使っていても、すでに善をなし悪を去る修養から外れている。陽明は天泉橋で、無善無悪に固執して空虚な静けさへ落ちてはならないと特に戒めた。「超越」が信頼できるかは、責任をより細やかにするか、それとも免責を広げるかで判断できる。
複雑な選択で二つの視点を保つ
完全な答えのない決定では、まず相手を本質的な悪人と決めつける必要はないと認める。これは本体の視点が残す開かれた姿勢である。そのうえで、予測できる害、権利、約束を比べ、具体的に選ぶ。こちらは修養の層で行う善悪の判断だ。決定後には見直す地点を残す。どの新事実が出れば考えを変えるのか。誰に説明し、償う必要があるのか。四句教の現代的な価値は判断から逃れることではない。自分を絶対化せず、同時に行動の責任も捨てないことにある。